前回は、産後ウツというもののメンタルヘルス上の位置づけを整理しました。
そこでは、「マタニティ・ブルーズ」という多くのお母さんが経験する一過性の状態なのか、あるいは「出産前後のうつ病」という病気なのかを区別することが大切だという話を紹介しました。
それにしても、なぜ多くのお母さんが、一過性にせよ「気分のふさぎ込み」や「涙もろさ」などの精神状態になるのでしょうか。
なぜ精神が不安定になるの?
医学や脳科学、神経科学の領域では、エストロゲンやプロゲステロン(女性ホルモン)とセロトニン(神経伝達物質)との関連や、オキシトシン(神経伝達物質)不足との関連など、お母さんの精神状態が生じる生理的なメカニズムをいろいろと説明しています。「どのように(how)」産後ウツが生じるのかというメカニズムについて知りたい方は、こうした女性ホルモンや神経伝達物質について、インターネットで調べてみられると有益な情報が得られるかもしれません。
私は心理士なので、「どのように(how)」ではなく、「なぜ(why)」マタニティ・ブルーズや産後ウツのような状態が生じるのかについて、その心理的なテーマをご紹介したいと思います。
マタニティ・ブルーズや産後ウツが生じる原因は?
マタニティ・ブルーズや産後ウツに限らず、「抑うつ状態(気分が落ち込んでふさぎ込む状態)」は、私たちの多くがしばしば体験することです。この抑うつ状態がなぜ起こるのかをまずは考えていきましょう。
特に、私たちが抑うつ状態を強く体験するのは、誰か身近な人や大切な人が亡くなったときです。心理学ではこうした大切な人や物を失った時の体験を「対象喪失」と呼びます。
例えば、大切なおばあちゃんが亡くなったとき、私たちはひどい落ち込みを経験します。私たちの社会には、そうした落ち込みを誰かとともにきちんと体験できるように「忌引き」という制度があります。一定の期間、私たちは現実の日常生活から離れ、悲しみに浸る体験をしなければならないのです。なぜならそれが、「弔い」だからです。亡くなったおばあちゃんの魂への弔いというだけではありません。大切なおばあちゃんと私とのこれまでの関係を弔い、新しい死者と生者との関係に生まれ変わらせるための時間です。
さてではマタニティ・ブルーズや産後ウツの場合、一体何を失っているというのでしょうか。大切な子どもが生まれているわけなので、失うどころか、大切なものに恵まれているはずです。にもかかわらず、気分が落ち込んでしまうのはなぜなのでしょうか。
産前産後のママは〇〇を失っている!?
多くのお母さんたちはこう言います。「希望」や「理想」を失うのだ、と。「子どもができたら、あれもしたい、これもしたい」「こんな母になりたい」「平凡で幸せな毎日を過ごしたい」など、妊娠前や出産前に思い描いていた希望や理想が、自身の体調の目まぐるしい変化や子どもの容赦のない夜泣き、夫婦の子育て方針の違いや夫婦生活のすれ違いなどによって、どんどんと崩れていく感じがします。「こんなはずじゃなかった…」「私は母親として失格だ…」こうした考えが、さらに気分の落ち込みを加速させていきます。
ですから、マタニティ・ブルーズも産後ウツも、やはり大切な何かを失っているからこそ生じる感情なのです。このことをお母さん自身も周囲の人たちも深く理解をする必要があります。「赤ちゃんが生まれて幸せじゃないの」「お母さんとしてしっかりしなきゃダメだ」といった言葉を思い浮かべる前に、この失ったものへの悲しみという深い理解があるかどうかをいま一度ご自身の心に問いかけることが大切です。こうした深い理解を心に携えて、はかなくも崩れいくこれまでの希望や理想への弔いをじっくり取り組んでいくことが、まずは何より大切なことです。
心理臨床オフィス えんノート
畠山 正文(臨床心理士・公認心理師)
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